おわっちった
今晩。。ついに8月もおわっちった。。
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総括
8月も終わっちまいましたね〜。初回の目標は全く達成されませんでした。ごめんなさい。誰に謝っているでしょうね。毎日投稿はどこへやら。
一方で、夏休みの目標、あそびへんはある程度達成しました。勉強編、体づくり編は全くですが、、。
全国の学生には申し訳ありませんが、私の夏休みはあとちょうど一ヶ月あります。どうせ8月みたいに過ぎていくのかな、、。
8月は小学生のような気持ちで、お外にいっぱい遊びに行きました。一方で割と自由に行動を決めました。思いついたことをやるような。
9月はもっと大学生らしく生活しようかなと思います。別に働いたりということではなく、世界の成り行きを考えたり、美味しいお酒をさがしたりというような、若干面倒臭い作業を毎日積み上げようと思います。
本命はプログラミングです。今季で統計用の言語をいっぱい触りたいと思います。堂々と書けるようなことではありませんが、本当にかじるくらいしかできません。もし解析して欲しいデータがあったら私がやります。もちろんコンサルもしますよ!小学生の皆さんはぜひ来年の自由研究のデータ処理は私におまかせあれ!
あとは物理系(数学)のお勉強もがんばらないといけないですかね。
本来なら8月で日記を書くのをやめるつもりでしたが、動機付け(?)のために9月も継続しようとおもいます。これまでは私の小学生日記にお付き合いいただきましたが、これからは私の自由研究発表会にお付き合いいただきたい。
研究テーマは今後発表していきます。皆さんの生活の知恵になるようなことをご紹介していきたいと思っています。
今後
明日からは以上に述べたようなことを継続していきたいと思います。今後もどうぞよろしくお願いいたします。
戦争始まるんとちゃいます?
こんばんは!ブログを書く頻度が落ちていく。。
[今日のメニュー]
・やる気
・根気
・元気
・戦争始まるんとちゃいます?
やる気(25日)
25日は友人とご飯に行きました。ちな、26日もいくですけど。友人との飲みで楽しいのは、相手の夢を聞いている時です。自分が話す側の時は、つまらない夢しか語れないんですけど、私の友人は本当にすごい人ばかりです。
ある友達の話をします。彼女はアフリカに食料品店を作りたいんだそうです。なぜと聞くと、貧困を本気で無くしたいんだそうです。
今のよのなか、貧困問題が表面化しているのはアフリカだけではないですが、彼女はアフリカの貧困問題を解決したいようでした。辛く険しい道だと思いますが頑張って欲しいです。
根気(26日)
26日も友人とご飯に行きました。25日は高校時代の友人でしたが、26日は中学時代のおとももちです。こちらは5、6年ぶりで懐かしい思い出話で盛り上がりました。
私は高校進学とともに地元を去りました、それ以来、中学校時代の友人と連絡をとることはなかったので、本当に久しぶりでした。
田舎の学校で生徒数自体も少なく、みんなが家族のような感覚があるので、会えて本当に嬉しかった。でも、久しぶりに会うと、距離感が掴めなくて微妙な空気になります笑。
元気(27日)
やっと今日まできた、、。実は昨日ご飯に出かける前にブログを書いていたんです。下書きに保存したつもりができていなくて、同じこと書き直しました。
今日は何していたんですかね笑笑お菓子を作りましたね。美味しい美味しいプリンが出来上がりました。
自粛中のたるんだお腹と睨めっこしつつもたくさん砂糖を入れました笑笑
そろそろ9月ですね。このブログも31日で終わろうかなと思います。そんなに読者がいるわけではないので、、笑笑 特に有益な情報もないので読む価値ありあませんかね笑
明日は念願の花火をしようかと思います。いとこといとこのお友達と、私のおとももちで
8月の最初に立てた目標の半分も達成できませんが、まあ頑張ります。そんなもんでしょう。大学生、、。
戦争始まるんとちゃいます?
私は毎日ボケーと過ごしていますが、マジで戦争始まるんとちゃいます?YoutubeとかTwitterといったSNSしか見ていませんが、最近戦争を煽るような投稿が多いですよね、、?確かにCOVID-19とともに半年間も暮らしてきてストレスが溜まっているのかもしれませんが、嘘なのか本当なのかまるで映画のようなことばかりです。
以前の投稿で書いたように、ネットの情報は基本、投稿主の思考に沿って行われるので、加工済みであることは考慮しなければいけません。そもそも、事実ではないかもしれません。
私は政治、外交、経済など人間の作った社会の構造に関しては全くの無知です。知ろうとした時期もありましたが、全てを知ることは不可能でした。そう思ったので早々に知ることをやめました。その外野的な立場から書きます。
いじめの現場に最後にやってきた、かげの薄いインキャがいじめに関して何か言っているといったような感じで、聞き流してください。
↓本文
オーストラリアにおける中国人留学生にインタビューをしている動画を日本語に翻訳されている動画を私は見ました。「オーストラリア、中国人留学生」のキーワードで検索されてください。
さて、動画を見られた感想はどうでしょうか。動画のコメントは本当なのでしょうか。信じられない。次世代の価値観がこのように固定化されているとすれば、戦争しか起きないでしょう。
人種、宗教観の違いに起因する迫害、差別についてはブログに書いています。しかし、アメリカでの黒人射殺のニュースがまた大きく取り上げられているので、もう一度触れます。
射殺は日本にいては非現実ですが、アメリカでは銃の所持が認められる場合があるので、警官も殺されるかもしれませんから、仕方ないのかもしれませんね。しかし、過剰な防衛には疑問を抱きますが、、。
私が問題だと思うのは黒人問題が取り上げられた時の人々の行動です。それぞれの言い分があり、立場があるのは理解しますが、暴動を起こさなければならないのでしょうか。あえて、暴動を起こしているのならそれは、アメリカまたはデモの頻発する諸外国において、その国を崩壊させることにしかならない。
裏社会があるのは確かで、揉み消される不都合があるのも確か、一市民が強大な国家に正面から対決するのは無理がある。行動は起こすべきだが、暴動は明らかに間違っている。自分の意思で動いているようで、みんな何かに操られているような気がする。
私の想像力が豊かなだけかもしれませんが、、
もう世界中にはスパイがたくさんいて、世界に対してテロを仕掛けているのかもしれませんね。今回の暴動が誰の得になるのか、どの国が利益を得ているのかは知りませんが、、。
平和はいつまで続くんでしょうか。戦後100年が経つ頃にはハイテク戦争の渦中かもしれません。
私は表面だけを見て生きていくことを決めたと、過去のブログで書きました。しかし、それはあくまで、身近な社会における裏を見ないことです。小さな世界に想像力をはたらかせないというだけです。
大きな世界の裏には想像力を働かせたい。でも、殺されたくはないので、想像だけに留めます。
社会という人間が楽するための構造によって、私の生を潰されたくはない。私は人類の将来に寄与したい。お金集め、自己顕示欲ゲームのおままごとに興味はない。
でも、本当に戦争が起これば私の時間は戦争の収束のために使わなければならない、、。戦争を起こさないのは簡単です。意義を唱えなければいい。でもそんなことは無理だ。私たちはそれぞれに生きる意味を持っていて、制限をゆるしはしない。だからこそ対立を生まないために、世界中の人々にはしっかり代表を選んで欲しい。そしてコントロールして欲しい。
君たち人類が社会という楽な構造をとった責任として、私の平和を守ってくれ、、。戻れるうちに目を覚ましてくれ、、。
8/24(と、23)
こんにちは!毎日投稿の鬼!大学生Tです。小学生になりたい。小学生でありたい。身分ではなく心の部分の余裕が欲しい。
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・しれっと23日目
・堂々と24日目
・偽善者
しれっと23日目
しれっと書きますが、23日目なにもなかったです。本当は何かあったはずなんです。最初のブログに書いたように、自分が小学生なら一見何もない日に何かを見つけられるはずなんです。
ボーっと過ごしてしまいました。お盆を過ぎ気が緩んだかもしれません。毎日ブログを書くだけのことができないなんて、恥ずかしい限りです。小学生のみんなは、いやでも学校に行っているというのに、、。
やはり、大学生になっても強制されないと何も続かないんですかね。いつまでも中途半端なんですかね。
・堂々と23日目
昨日の反省を込めて今日は朝からお勉強です。一週間をリセットするには月曜日に動かないと、と思いまして、、。
20日弱、日記を書いてきましたが、タイピングだけは早くなったような気がします。どうでも良いですが、、。
今日のお勉強は、数学と物理です。小学生の皆さんにも教えられるくらいに勉強したら、何を勉強しているかも書きます。お楽しみに、、。(笑)
・偽善者
偽善(ぎぜん、英: Hypocrisy)とは、特に宗教や道徳的信念に関し、真の性格・性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観をつくることを言う。したがって、一般的な意味において偽善には「不誠実なそらとぼけ」、「見せかけの振りをすること」、または「まやかし」が含まれることがある。偽善的な行動とは、他を批判するのと同じ行動を自らも行っていることを指す。道徳心理学においては、自ら表明する道徳的な規則や原則に従わないことを指している。
偽善者なんて言葉はよく聞きます。自分を指して使うこともあれば、他人を批判して使うこともありますね。
どうでしょう皆さん自分は偽善者だと思いますか?私は自分自身を偽善者だと思います。
それに加えて、他人もすべて偽善者に見えます。自分がそうだからなのか、本当にみんな偽善者なのか知りませんが、そう感じます。
私は幼い頃、全てを知りたかったです。例えば、お医者さんの言葉がどこまで妥協しているのか、適当なのか、良い加減なのか、、。お肉屋さんの商品の説明がどこまで本当なのか。お母さんの優しさがどこに起因しているのか、本心なのか。先生の説明はどれくらい曖昧なのか、真実とは何か。
でもわからないんです。真実も嘘だと言われれば、嘘になってしまう。見えない嘘も、真実もたくさんある。自分一人では解決できない。他人の言葉は信じられない。
相手の脳を開くしか私には道はありませんでした。
これらの考えを捨てたのは高校生の頃だと思います。私がどれだけ考えても社会は回っているし、みんな生きている。みんなそんな社会で、幸せを感じる瞬間がある。そのことに気づいた時、私は社会の中で社会にある程度流されていれば、死ぬまで生きてられるなと思いました。
周りが私をどう思ったって良い。私が直接言われなければ良い、いつも通りみんなが接してくれれば良い。結局見えるのは表面だけ。みんな表面だけで生きている。そう思った記憶があります。
結論としてはいつも同じです。誰もこの世界を完璧に理解できない。絶対はないのです。すべてのものが人間の、しかもその時代の文化というメガネを通して理解されたものであり、全てが標準と比較された、相対的なものである。
私がどう悩もうとも、私の標準があれば良い。あなたの基準があなたの人生ではすべてなのです。
あなたが自分の顔の活動を振りかえって偽善だったな、なんて思わないような活動をしたら良いんだと思います。
クーラーで風邪ひいた
こんばんは。クーラーで風邪ひいてしまいました。怠惰ですね。
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・8/20
・オンライン授業
8/20
昨日は1日寝ていました。なぜだか体がベットから起きませんでした。体調不良ではなかったので、栄養不足か何かだったのかと勝手に思い込んでいます。クーラーを止めると部屋が地獄みたいに暑くなるので、一日中付けっぱなしでしたが、多分風邪ひきました。これぞ夏風邪ですね。。
オンライン授業
私の大学では後期もオンライン授業が決まりました。特例的に対面で行われるものもあるようですが、基本的にはオンラインだそうです。ちょっと残念ですよね。確かにオンラインで十分学習効果が認められたのでしょうが、一年中家で過ごすのは大学生としてちょっと残念です。授業がオンラインでさる以上、サークルなんかもあまり始められないでしょうから、その点についても残念です。
オンライン授業では自分の好きなように勉強できます。友人がいればなお良い学習高kあを得られると思います。私は大学にともだちがいないので苦労しますが、、。
さすが大学といったところで、私の大学では前期も割と早い段階でオンライン化しました。そのため夏休みも十分に与えられました。小学生や高校生を見ていると休みも少なくかわいそうだなと思いますが、テレビのインタビューを見ていると、意外とみんな学校が好きなようで
驚きました。
外に出れない休みは、休みじゃないんでしょうね。
我々学生はオンライン授業に基本的に不満はないと思います。さらにいえばこれからの大学の授業としても、基礎教養だけならオンラインで十分だと思います。出席点などで成績をつけるような体制はやめて、学習能力にそって評価するべきです。
オンライン化された教育によって、本来の学習とは何か、自ら学ぶとは何かが明確になると思います。好きな人が好きなものを学ぶことが増え、ほとんどの人が大学に進むような時代は終わると思います。同時に就職予備校としての大学の役割も終わり、学歴に対する正当な賛美と評価が行われ、学歴社会の終焉を見ることができるはずです。
時代に遅れた日本のお尻を叩いたのはコロナウイルスかもしれません。
氷菓子
こんばんは!人生の夏休み真っ只中大学生です。
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・昨日
・今日
・氷菓子
昨日
昨日の日記を書いていなかったので、今日書かせていただきます。昨日はYoutubeで発見したHandsclapという曲に合わせて踊る動画に影響されてずっと踊ってました。2週間で痩せるらしいです。1時間で十分痩せましたけど笑(連続して何時間もするものではない)
3分くらいの曲なんですけど、すっごいカロリーを消費してる気がします。お腹も捻るので、ウエストも引き締まっている気がします。私は2時間+30分+1時間半やりました。もう汗が滝のように出てきました。もともと代謝が良い方なのですが、足元に水溜りができたのは高校の部活時代から2、3年ぶりでした。
汗を書くのは気持ちいいですね。
夏といえば24時間テレビがありますが、24時間連続して、HANDSCLAP踊ったら、踊れたら面白いだろうなぁなんて考えながら、2時間で力つきました。
24時間マラソンもあるし、24時間ほにゃららみたいなのを並行して生中継したら面白いだろうなと思います。
今日
今日はお散歩しました。今日も相変わらず暑かったので、途中で屋根のあるベンチに座りました。お天道様の様子を伺おうとふと顔を上げると、クモが大きな大きな巣を作っていました。
しかも、、三匹。。
ここで小学生の皆さんにお聞きしたい。そんな蜘蛛を見たらどうしますか?
私としては当然、戦わせたくなります。それほど体格差もなかったので良いかなと思ってそのまま一匹を棒ですくって、他の蜘蛛の巣に放り投げました。
結果は睨み合いに次ぐ睨み合いで、結局膠着しました。その後どうなったかはわかりません。お尻を突いたりもしましたが戦おうとはしませんでした。知り合いだったんですかね?
時間を見ると1時間くらい見守っていました笑
昨日のダンスに次ぐ長時間のお散歩で、もう目が閉じそうです。。。
明日の目覚めは素晴らしくなりそう。最近は遊んでばっかりなので、そろそろ自習室に行ってみようかな。久しぶりに、、。難しいんだよなぁ、、。ベンキョ、、。
君たちアイスはすきかぁ〜〜〜〜〜??!!!!
私は大好きです。特に、氷が好きです。チョコレートやクリームのアイスももちろん好きなのですが、氷のアイスを好みます。一番好きなのは、iceboxです。
私とiceboxの歴史を今日はみんなに聞いて欲しい。
私と彼の出会いは祖父の紹介だった。突然私の家にきて祖父は彼を置いて行った。今日は暑いなとだけ言い残して、、。あまりの暑さに私は理性を働かせることなく、彼を食べてしまった。「焦らなくても良いよ」と言わんばかりに頭をこづいてくる彼、口の中で溶けていくような彼。あの日以来私は彼の虜だ。
私はその後歳を重ねるとともに、彼を見なくなっていた。なぜなら彼はあまりにも子供っぽいからだ。いつまでも、ありのままの純粋さしか持っていない。彼は他に比べて甘さは持ち合わせていないし、劇的な展開を持ち合わせない。着飾りもしない。いつまでたっても彼は小学生のままの彼だった。
高校生になり、部活が過激化した夏。私は彼と運命的な再会を果たすことになる。私はいつものように自販機で炭酸飲料を買った。その日も、彼と出会った日と同じくらいにとてもとても暑かった。窓際に置いてしまった炭酸飲料はあっという間にホットになってしまった。
私にとって最悪の状態が待っていた。部活終わりに、、
プハアーーー
と一気飲みするつもりの炭酸が冷えていないなんて言語道断だ。私は一生懸命考えた。そして思いついた。氷を買いに行こう。この時点で氷とは、普通のロックアイスだった。コンビニに行くと、一番にアイスの棚が目に入った。
iceboxぅぅぅぃうううう
彼が私の視線から離れなかった。そして私は買ってしまった。目的は彼ではなく、炭酸飲料の引き立て役だった。なぜ私があそこで彼を選んだのか、普通の氷ではなかったのかはわからない。しかし、その後、彼と私は永遠に離れなくなった。
iceboxと炭酸飲料の組み合わせは神だ。彼はどんな炭酸にも合わせてくれる。グレープフルーツのフレーバーはなぜあそこまで良いやつなんだ。
私は一生彼をあいする
後半戦
今晩わ!8月も後半戦ですね。暑さはまだまだ残りますし、コロナもまだまだ残ります。しかし、夕日をみると名残惜しさが心の中に溜まっていく。そんな頃です。小学生のみんなは変則的な夏休みどうだったかな?新学期も小学生らしくあろうね!
[今日のメニュー]
・後半戦
・後半戦
8月はもう後半戦。お盆休みも終わり、今日から現場復帰だったお友達も多いはず。。申し訳ながら私は全線復帰まであと1ヶ月半ほど猶予を頂いております。
<<だって人生の夏休みだから>>
今日は山へセミとりに行ってみました。(セミはおろかカブトムシもさわれませんが)山は涼しくてとても好きです。山登りとは違い、山を楽しむというより、セミの声に耳をすますと、ああ夏だというものを感じます。またそれもいいものです。10数年前私がまだ純粋だった頃(疑いのないくらいに純粋だった頃)公園に行けばバッタが草むらから一気に飛びだしてきていました。
変わらないものです。
山に入れば家の周りよりも忙しなくセミが飛んでいます。ちょっともりました。(森だけに)脱水症状でノックダウンするまでは本当に小学生に戻ったようでした。心も体も、不思議と足が前に出ました。帰宅すると動きませんでしたが。
現代を生きる大人にとって、休みの日にセミとりをすることがなんの役に立つというのでしょうか?宝くじがあったたら貯金。休みがあったら家でごろごろ。そんな回答をする大人しかいませんからね。
私はどうしましょうか。
宝くじがあったたら、ユニセフに全部あげましょうかね。休みがあったら、小学生になりたいと思います。
What if...を常に自分に問いかけると面白いということだけ皆さんにお伝えしたい。
囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英: prisoners' dilemma)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ。お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである[1]。各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので、社会的ジレンマとも呼ばれる[2]。
wikipediaからの引用です。
ゲーム理論や、心理学の本を開くと一番初めに出てきます。皆さんはどう思いますか?この実験自体は疑いようもなく存在するものです。他にも、社会的な利益よりも個人的な利益を優先することを抽象化した実験はたくさんあります。
昔、ライアーゲームというものが私たちの間で流行りましたが、改めて見返すと囚人のジレンマそのものです。
さてこの話題を持ってきたのはいつもながら、私の生きる意味を考えていたからでした。私が生きているのは社会のためだとする。そう仮定しましょう。社会に生かしてもらっているのだから、社会に奉仕すべきだという考えです。他の欲求は、今回は無視しましょう。ここで一つの矛盾が私を襲いました。
①社会に利益のある行動をする
②生きるために自分に利益のある行動を取る
さて、人生ではこの二つは矛盾すると私は思ったのです。私の生きている意味では、私は①を選択しなければなりません。
一方、②を選択しないと私は生きていけません。
社会の利益が私の利益になることもあります。しかし、その間にタイムラグがあることがほとんどです。つまり、緊迫した極限状態では、どちらかを選択しないといけません。そして、どちらも選択できないのです。私は死ぬことでしか生を肯定できないのです。
こう考えていくと今まで理解できなかった一つの考えをうまく飲み込めました。それは自殺者の気持ちです。私は自殺者の死は身勝手なものだと思っていました。本気で死ぬなら社会に貢献して死ねと思っていました。しかし、死ぬこと自体が社会に貢献することもあるということが理解できました。
人生の理不尽さに屈するのは肯定できることではありません。理不尽さと一概に括ることもできませんが、私の世界に受入れがたい理不尽があることは知っています。自殺を希望する人の90%がそのような社会的な、運命的な理不尽のせいだと思いますが、社会の貢献のために死を選ぶ人がいることも確かです。(自殺に関してはまた書きたい)
今回は残り10%の人々の気持ちが理解できました。肯定はしませんが、
なぜなら、死による貢献度を100%だとすれば、生による貢献度は200%でしょう。(割合はテキトーですが、そのぐらいに価値は違うということです)
さて、話が大きく膨らんでしましたが、生きる意味を社会的な価値のみにおいてしまうと、私の生は死のみでしか肯定できません。私は死にたくはないので、他に生きる意味があると考えます。
ああ、こんな事考えなくても生きていけるのになぁ。
いつもそう考えています笑
お盆
こんばん。ボンボン!おボンボン。ちょっぴりいいことありました。でもプライベートなんで言いません笑
[今日のメニュー]
・ボンボン。おぼんこぼん
・戦争
・ボンボン。おぼんこぼん
すみません。おぼんこぼんなんていう漫才師は全く年代ではありせんが、特番でよく名前は見るので頭から離れないだけです。(失礼)今日も本を一冊。
中身は紹介しませんが、本屋さんで表紙が可愛かったから読みました。是非ご一読を、バイブルにしてもいいかも笑
それから、the big bang theoryというアメリカコメディドラマもハマりにハマっております。こちらも時間があれば是非見てみると思います。少しでも理系ネタを理解できるとより面白いかもしれません。
話は変わりますが、日焼けした小麦色の肌が、せっかくセクシーにした肌が、はげてきて最悪です。ああああ、ああああ。今日はお布団を少し掃除しました。万年床にはできません。お布団気持ちいい。クーラーつけてお布団かけて寝るのは、コタツでアイス食べるのと似た感覚があります。
戦争
私は戦後生まれです。さらに言えば、2000年代生まれです。これを読んでいるみなさんも、そうでしょうが笑一応私よりも年代が上の方も読んでいるとしましょう。以下は私の意見であり、私の所属する団体の意見を代表するものではありません。
私にとって戦争は怖いものです。何が怖いのかわかりません。私はゲームで人殺しもしますし、戦争シュミレーションもします。好きではありませんが、できます。動画サイトでも、中東の銃撃戦の動画を漁ることもあります。しかし、実体験を元にしたドキュメンタリー番組や映画は怖くて見れません。小学、中学の学習のなかで戦争の話を聞いたことも覚えていますし、私のおじいちゃんも戦争の時代、戦後の苦しい時代を生きてきた世代です。
これらが、私のなかでの戦争、特に太平洋戦争との繋がりです。
こう考えてみると、テレビ番組はあえて怖さを際立てせているようにも見えますし、一方でゲームや動画サイトでは刺激的な表現を厳しく規制しているようにも思えます。
我々が戦争を経験した世代に話を聞くことができる最後の世代です。むしろ、本物の戦争を脚色や誇張や編集なしに知れるのは私たちしかいないのです。伝承される話は全て、伝承するものの主観が入ります。一方で、老人方はすでに戦争が遠い記憶になられていますが、、
果たしてこれから先戦争の怖さを正しく伝えることができるのでしょうか、そもそも私は戦争の怖さを正しく理解して、正しく戦争を怖がっているのでしょうか。
戦争は絶対悪でやってはならないのはわかります。しかし、もし戦争をしなければならない時、我々は何を守るべきで、何を捨てるべきなのでしょうか。土地を捨てるのでしょうか。命を捨てるのでしょか。情報を守るのでしょうか。命を守るのでしょうか。戦争よりも悪い状況に陥ることはないのでしょうか。
私の先祖が日本という国を一生懸命守ろうとしたことには誇りを覚えます。一方で、日本人たるものはなんだったのかという疑問は残ります。文化を人種を守ることに本当に意味があったのか。今の裕福な生活は戦後の先祖の頑張りにあると思います。そして彼らの中に流れる教育の本軸は紛れもなく戦時中のものであったことでしょう。つまり、戦争を行った大人たちに教育された子供たちが今の日本を作ってくれたのです。
歴史は確かめようがない。世界で事実とされた事実のみが事実である。当然納得しないものもいるだろう。これは昔にも書いたように、定義を認めるか否かの問題である。基準は複数存在する。
私の守るべきものは何か、死ぬまで、またはその選択を強要されるまで、私は永遠に守るべきものを探し続けるだろう。探し続けなければならない。