後半戦
今晩わ!8月も後半戦ですね。暑さはまだまだ残りますし、コロナもまだまだ残ります。しかし、夕日をみると名残惜しさが心の中に溜まっていく。そんな頃です。小学生のみんなは変則的な夏休みどうだったかな?新学期も小学生らしくあろうね!
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8月はもう後半戦。お盆休みも終わり、今日から現場復帰だったお友達も多いはず。。申し訳ながら私は全線復帰まであと1ヶ月半ほど猶予を頂いております。
<<だって人生の夏休みだから>>
今日は山へセミとりに行ってみました。(セミはおろかカブトムシもさわれませんが)山は涼しくてとても好きです。山登りとは違い、山を楽しむというより、セミの声に耳をすますと、ああ夏だというものを感じます。またそれもいいものです。10数年前私がまだ純粋だった頃(疑いのないくらいに純粋だった頃)公園に行けばバッタが草むらから一気に飛びだしてきていました。
変わらないものです。
山に入れば家の周りよりも忙しなくセミが飛んでいます。ちょっともりました。(森だけに)脱水症状でノックダウンするまでは本当に小学生に戻ったようでした。心も体も、不思議と足が前に出ました。帰宅すると動きませんでしたが。
現代を生きる大人にとって、休みの日にセミとりをすることがなんの役に立つというのでしょうか?宝くじがあったたら貯金。休みがあったら家でごろごろ。そんな回答をする大人しかいませんからね。
私はどうしましょうか。
宝くじがあったたら、ユニセフに全部あげましょうかね。休みがあったら、小学生になりたいと思います。
What if...を常に自分に問いかけると面白いということだけ皆さんにお伝えしたい。
囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英: prisoners' dilemma)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ。お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである[1]。各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので、社会的ジレンマとも呼ばれる[2]。
wikipediaからの引用です。
ゲーム理論や、心理学の本を開くと一番初めに出てきます。皆さんはどう思いますか?この実験自体は疑いようもなく存在するものです。他にも、社会的な利益よりも個人的な利益を優先することを抽象化した実験はたくさんあります。
昔、ライアーゲームというものが私たちの間で流行りましたが、改めて見返すと囚人のジレンマそのものです。
さてこの話題を持ってきたのはいつもながら、私の生きる意味を考えていたからでした。私が生きているのは社会のためだとする。そう仮定しましょう。社会に生かしてもらっているのだから、社会に奉仕すべきだという考えです。他の欲求は、今回は無視しましょう。ここで一つの矛盾が私を襲いました。
①社会に利益のある行動をする
②生きるために自分に利益のある行動を取る
さて、人生ではこの二つは矛盾すると私は思ったのです。私の生きている意味では、私は①を選択しなければなりません。
一方、②を選択しないと私は生きていけません。
社会の利益が私の利益になることもあります。しかし、その間にタイムラグがあることがほとんどです。つまり、緊迫した極限状態では、どちらかを選択しないといけません。そして、どちらも選択できないのです。私は死ぬことでしか生を肯定できないのです。
こう考えていくと今まで理解できなかった一つの考えをうまく飲み込めました。それは自殺者の気持ちです。私は自殺者の死は身勝手なものだと思っていました。本気で死ぬなら社会に貢献して死ねと思っていました。しかし、死ぬこと自体が社会に貢献することもあるということが理解できました。
人生の理不尽さに屈するのは肯定できることではありません。理不尽さと一概に括ることもできませんが、私の世界に受入れがたい理不尽があることは知っています。自殺を希望する人の90%がそのような社会的な、運命的な理不尽のせいだと思いますが、社会の貢献のために死を選ぶ人がいることも確かです。(自殺に関してはまた書きたい)
今回は残り10%の人々の気持ちが理解できました。肯定はしませんが、
なぜなら、死による貢献度を100%だとすれば、生による貢献度は200%でしょう。(割合はテキトーですが、そのぐらいに価値は違うということです)
さて、話が大きく膨らんでしましたが、生きる意味を社会的な価値のみにおいてしまうと、私の生は死のみでしか肯定できません。私は死にたくはないので、他に生きる意味があると考えます。
ああ、こんな事考えなくても生きていけるのになぁ。
いつもそう考えています笑